「被ばく牛は原発事故の生きた証」「誰かを捨てて、蹴飛ばして、今の平和や繁栄がある。それでいいのか、問い続けたい」 福島県浪江町・希望の牧場 吉沢さん

2011年3月に起きた福島第一原発事故で、福島県浪江町をはじめとする警戒区域内の農家が牧場の放棄と家畜の殺処分を余儀なくされた。そんな中で330頭の牛を救ったのが「希望の牧場(福島県双葉郡)」の吉沢正巳さん(60歳)だ。国の全頭殺処分指示に従わず、そして、苦渋の中で自分の家畜を置き去りにせざる得なかった地元の同業者からも反発を買った。何が牛を救出する行動へと駆り立てたのか。

希望の牧場内の放射線量は、3.4~8.1マイクロシーベルト/h(2013年9月時点)とかなり高い。
希望の牧場内の放射線量は、3.4~8.1マイクロシーベルト/h(2013年9月時点)とかなり高い。

警戒区域内の家畜のほとんどが餓死

福島原発事故前、警戒区域内では牛約3500頭、豚約3万頭、鶏約44万羽が飼育されていた。事故後、そのほとんどが畜舎で放置され、餓死した。同年3月11日、13日に起きた原発建屋の爆発、国から警戒区域設定、全頭殺処分の通告が出されるなど数々の障壁が立ちはだかる状況をかい潜り、吉沢さんは牛に水とエサを与え続けた。

希望の牧場は福島第一原発から約14キロの距離にあるが、除染が行われているのは道路から数メートルの範囲内だけで、ほとんどの場所が今も放射線量は高いままだ。事故から3年経った今、たくさんの牛が死んだが、仔牛も生まれ、今も事故前と変わらないほぼ同数の牛が、のんびり暮らしている。「牛の経済的な価値はゼロだということは分かっていたが、見殺しにはできなかった。被爆したという意味では貴重な存在。研究目的で生かす意義はあると思うので、今後も牛たちを生かす道を求めていきたい」と吉沢さんはいう。

スタンチョンという器具をつながれた牛はエサを与えられることなく餓死。崩れ落ちるように死んでいった。
スタンチョンという器具につながれた牛はエサを与えられることなく餓死。崩れ落ちるように死んでいった。

原子炉建屋爆発。これで終わりだと

2011年3月11日、東北大震災が起きたとき、吉沢さんは南相馬市のホームセンターで買い物をしていた。強い揺れにただならぬ事態が起きたということはすぐに分かったが、牧場が心配で戻ることにした。そこで見たのは、無残に潰れた牛舎、倉庫だった。電気が止まっていたのでディーゼル発電機を回し、牛たちに水を与えた。

3月12日、通信設備を設営するため、警察の通信部隊が10人ほどやってきた。そして、15時36分に原発建屋で水素爆発が起きる。警察官らは「本部から撤収命令が出たので、私たちは引き上げる。あなたもすぐに安全な場所に移動してください」と言い残して立ち去ったという。そして、14日にも2回の爆発音を聞く。吉沢さんは自衛隊のヘリコプターが、原子炉建屋に散水する様子を牧場から見ていた。「自衛隊は人々を守るため、きっと彼らはここで盾となって死ぬに違いない。その姿を見て自分もここから逃げるわけにはいかない」と気持ちが固まったという。この時、自衛隊が掲げていた「決死救命、団結」は、そのまま希望の牧場のスローガンになる。

エサを持ってくると牛たちは我先にと集まってくる。
エサを持ってくると牛たちは我先にと集まってくる。

牛を助けなければ。無我夢中で牧場へ戻る

その頃、浪江町では国、県から情報がない中で、独自に避難を判断。原発から北西に25キロのところに位置する津島に、約8000人の避難民が押し寄せ、ごったがえしていた。この後、避難民が逃げた方向に大量の放射能汚染が拡大していたことが明らかになる。スピーディ―の情報が国によって隠され、住民に知らされなかったのは後の報道の通りだ。

その後、吉沢さん自身もいったん二本松市へ避難したものの、再度、牧場に戻ることを決意。立ち入り制限区域で線量計を持った警察官から「通常の1000倍の放射線量となっているから入ってはいけない」との制止された時も、「牛に水を与えなければ、死んでしまう。自己責任で行く」と振り切った。

なぜ、高いリスクを承知で牧場に戻ろうと思ったのか。「ここで暮らしている牛は、経済的には価値がありません。牛の肥育を仕事にする私にとって意味があることなのかと考えました。それでも、割り切って、見捨てることはできなかった」。そして、「福島は国から見捨てられたのです。国はいざとなれば国民を捨てるのです」と言葉を続けた。

「被災地のことが風化しないよう、これからも訴え続けていく」と語る吉沢さん。
「被災地のことが風化しないよう、これからも訴え続けていく」と語る吉沢さん。

戦争中の棄民政策。福島に重なる

吉沢さんの国に対する不信感は、満州開拓団として中国に渡った父・正三さんの体験からくる。終戦間近、ソ連が日ソ中立条約を破って参戦するという情報を掴むと関東軍は退却。多くの日本人が「棄民」として置き去りにされ、60万人もの人がシベリアで抑留生活を送ることになった。その後、正三さんは無事に帰国を果たすも、国からの賠償はなく、住む家も食べるものもない困窮生活を強いられた。苦労の末、千葉で牧場を営む事業を始めた後、福島県浪江町に移り住んだ。その後を継いだ吉沢さんが2代目になる。かつて父が国から「棄民」として受けた扱いが、牛の置かれた状況、福島の人たちに重なるのだという。

「事故から3年が経過した今、被災地の人は今も故郷に戻れず、仮設住宅で生活しているのに、東京ではオリンピックが開催されると盛り上がっている。都知事は東京を世界一の街にすると言っているが、私には遠いところで起こっていることにしか思えない。オリンピックにネガティブな発言をしている人は非国民と言われそうな、そんなムードすらある」。

講演会は全国、呼ばれればどこにでも赴く。100回を超えた。
講演会は全国、呼ばれればどこにでも赴く。100回を超えた。

これからも脱原発、福島の窮状を訴えていく

「福島がこんな状況にもかかわらず、国は原発を再稼働しようとしている。ドイツは脱原発を決めたが、なぜ、日本で同じことができないのか。このまま2、3回、福島と同じことが起きなければ分からないのか。脱原発、福島の窮状を、都心や再稼働予定地の周辺などで訴えていきたい」。今後、全国を自分の軽トラックで街宣する予定だ。高い放射線量の中で3年にわたり、牧場で牛の世話を続ける。健康に影響はないのか。「事故後、20回ほど検査を受けたが、異常はなく心配ない」と意に介さない。東京・渋谷のスクランブル交差点をはじめ、各地の街頭に立って演説を行う。講演会は100回を超えた。

「福島で作られた電気は東京で消費される。それなのに私たちの故郷は東京を支えながら、無くなろうとしている。誰かの犠牲のもとで、一部の人が豊かさを享受する、それがまかり通る世の中はおかしい。米も野菜も作ることができず、多くの人が故郷に帰ることすらできない。仮設住宅に住む人の間でいさかいも起きる。争うべきは隣人ではなく、こんな状況を作った国であり、東京電力だ。特に東京に住む人が享受している今の豊かさを感じるもとになる電気は、福島で作られているということを、これからも訴え続けていきたい」と語る。これからも全国の街頭で、その想いを訴えていく決意だ。

東京・渋谷のスクランブル交差点で演説する吉沢さん。(撮影:木野村匡謙)
東京・渋谷のスクランブル交差点で演説する吉沢さん。(撮影:木野村匡謙)

■参考文献 原発一揆(針谷勉著 サイゾー)